節分には恵方巻きを食べる風習が定着した
近年、節分の日に「恵方巻き」を食べるという習わしが全国的に定着してきました。今年の節分もたくさんの人が恵方巻を食べたことでしょう。
恵方巻きとは、節分の日に恵方を向いて無言で食すると縁起が良いとされる巻き寿司のことです。また、恵方とは歳徳神(としとくじん)の居る方角を言い、万事に吉とされています。歳徳神は陰陽道でその年の福徳を司るとされる神のことで、年神とも言われます。
この風習の発祥については諸説ありますが、明治以降に関西地方の一部で始まったことは間違いないようです。
最近の全国的流行の原動力は、コンビニエンスストア・チェーン店が大々的に販売促進に努めていることでしょう。昔から、「ニッパチ」という言葉があり、2月と8月は商業活動が低調になる傾向があります。2月対策には恵方巻きセールがお誂え向きでしょう。
干瓢は精進料理として応仁の乱の頃から食べられていた
恵方巻の具も最近では工夫を凝らした新しい具材も増えてきましたが、定番の具として干瓢(かんぴょう)は欠かせません。
干瓢(かんぴょう)は、精進料理の具材や出汁の素として、中国から伝えられました。
川上行蔵著『つれづれ日本食物史』(注1)によると、干瓢の原料であるユウガオについては、枕草子や源氏物語に記述があるけれども、干瓢については『節用集』の明応五年本(1496年)に登場するのが最古ではないか、とのことです。つまり応仁の乱(1467年~77年)のころには干瓢があったと考えられます。
摂津の国(現在の大阪市浪速区)がわが国の干瓢生産の発祥の地と伝えられています。その後は精進料理との関係で、寺社の多い京都や奈良に近い地域で盛んに生産されました。
干瓢はウリ科のユウガオの果実です
ご存知のように干瓢の原料は、ウリ科のユウガオの果実です(ヒルガオ科のユウガオとは別の植物です)。果実の形は、丸形もあれば長楕円形もありますが、干瓢生産には丸形が適します。
次に、一連の作業を略記します。
★収穫作業:収穫時期は6月から9月まで。朝2時、3時から作業を開始し6時前に終了。8kgほどに肥大した実を農家1戸で1日に150個も収穫することもあります。
★皮むき作業:回転軸に取り付けられ,回転するユウガオの実を手鉋(かんな)で薄く長くテープ状に剥いていきます。
★乾燥と燻蒸作業:温風がでるビニールハウス内に干します。干瓢には、ハウス内に干瓢の防カビ、防虫、変色防止のため亜硫酸ガスが入れて作る漂白タイプと無漂白タイプの2種類があります。
生産技術の伝播と恩返し
現在の国内生産の9割以上が栃木県下で行われています。奈良・京都から遠く離れた栃木県で干瓢生産が盛んになったことには興味深い伝承があります。
『栃木県の歴史』(山川出版社)には、「鳥居忠英(とりい ただてる)が正徳2年(1712年)に、近江の国水口藩から下野の国壬生藩に転封(国替え)した際に、夕顔の種を伝え栽培が始まったと言われ、壬生を中心に都賀郡中央部で最も有力な換金作物の一つになった」と記されています。
忠英は信濃の国高遠藩主、鳥居忠則の世子でしたが、故あって能登の国・下村藩1万石の藩主となり、元禄8年には近江の国・水口藩2万石に転封し、さらに正徳2年に下野の国・壬生藩に移りました。その際、ユウガオの種と干瓢の加工法を導入したのです。なお、忠英は寺社奉行、若年寄へと昇進した名君と称えられています。
この1712年を栃木県干瓢商業組合では「干瓢の栃木県伝来の年」としており、2012年には干瓢伝来300年記念の催し物が展開されました。
歌川広重(安藤広重とも呼ばれる)が浮世絵「東海道五十三次」の中の「水口の宿」に、乳飲み子を負ぶった女性達が干瓢を干す風景を描いています。東海道五十三次が書かれたのは天保4年(1834年)以降ですから、相変わらず、水口では干瓢生産が盛んだったことが窺えます。
参考サイト:https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige063/
干瓢の消費拡大に向けて
干瓢は食物繊維が多く、鉄分、カルシウム、カリウムも豊富に含まれ、夏バテ防止にも効果があります。特に食物繊維は100グラム当たり約30グラムも含まれます。
従来の用途は、巻き寿司の干瓢巻き、太巻き寿司やちらし寿司の具、煮物の昆布巻き、揚げ巾着、ロールキャベツの結び紐などが一般的です。
最近の食生活の変化につれて、干瓢消費量が低迷しています。これを打開するため、栃木県干瓢商業組合が中心となり消費拡大策を展開しています。まず「干瓢の日」を1月10日と定めました。干瓢の干の字を一と十に分解して1月10日としたものです。毎年1月に干瓢祭りを開催したり、新メニューの開発と普及促進に努めたりしています。新メニューは同協同組合の「かんぴょうnet」で紹介してますので、ぜひご覧ください。
(注1)東京美術発行、1992年刊。著者の川上行蔵氏(故人)は農学博士で、農林省を退官後、料理書原典研究所を設立、主宰しました。